東野圭吾氏の発言に見る安易な顧客像(万来堂日記)
旅烏さんが、作家の東野圭吾氏の発言に対し、新古書店の店員の視点から、意見を述べられています。
Copy & Copyright Diaryの末廣さんは「本の価値を決めるのは作者ではなくて読者である」と憤慨している。これには全く同意。
という意見に私も同意。本を所有するしないは読者が決めます。
で、この視点についてはこっちにおいといて。
私が気になった東野氏の発言はこちら。
図書館で無料で読む人が、同じ読書サービスを受けるのはアンフェア。
いーやちょっと待て。なんだその図書館の存在意義をきれーに無視した発言は!
図書館は、文献の収集・管理・保管と、万人の知る権利を保障するための提供がされる施設です。50年100年前の文献を誰でも参照できるようにし、今の文献を50年後100年後の人が誰でも参照できるようにするのが努めです。
気になったし腹も立つけど、まーいーや。東野さんの書籍を図書館に置かなければいいだけのことだし。(公共機関だからそうはいかんでしょうが(笑))
とまー、そんなことをコメントしたら、
さくらいさんからこんな反応が。一部だけ抜き出すと文脈が変わりそうなので、ちょっと全文引用させて頂きます。(あまり良くないんでしょうが)
図書館はなんのためにあるのでしょうか。知る権利を保つためか、文化を普及するためか。本が貴重品だったころにくらべ、本は安くなりました。なぜ本だけが文化財の名目でひろく一般に無償で公開されるのでしょうか。映画や音楽は文化財ではないのでしょうか。仮に、今後レンタルブックサービスのようなものが始まった時に図書館だけがなぜ発売と同時に新刊を貸し出せるのですか。
もちろん、高価な書籍や専門書のようなものは図書館で公開されるべきです。しかし、一般書籍はせめて、民間のレンタルブックサービスと同じ期間は公開をすえおくようにするべきではないかと思います。そうでなければ、民間の圧迫にもなるでしょう。より区民・市民の需要があるような映画やポップミュージックを貸し出しはしないのでしょうか。
もう書籍は「文化財」だからと言える時代は終わったのです。いや、すでに終わっている。専門書や一部の書籍を除いて、いわゆる「電車男」のようなものはあくまで商品であり、それを生業にしている民間がある時点で「文化財」だから無償で公開という時代は終わっているのです。
私の考えは以下の3つになります。
1.図書館は万人の知る権利を保障するためにある。
金のある奴だけが本を読める…グーテンベルグ以前の世界に戻りますが。
2.アーカイブの取捨選択を一介の企業にまかせてよいとは思えない?
利潤を追求するためなら、自社に都合の悪い文献は抹殺しても可ですよね。
3.映画や音楽も文化財でしょう。
業界団体が著作権を盾に、図書館におけないようにしてるだけのはずです。(要確認。だが、置かないように自粛要請はされている模様。)
ちなみに、「電車男」だって、視点を変えると研究資料としての価値は大ありと考えます。
まず、この時代のネット上のテキスト文による不特定多数のコミュニケーション方法について。次に、不特定多数を著作権者とする文献である点。
2年、3年程度ならどーってことはありませんが、50年後、100年後の研究者にとっては、貴重になりうると考えます。
商品か、研究資料かは人により、時代により異なります。(江戸の瓦版だって、当時はただの新聞(商品)ですが、現在では当時の文化を知る貴重な研究資料です)
取捨選択をせず、できうる限りの文献を収集、保存し提供するのが図書館の役目であり、そのために国会図書館には、出版物が納入されるのです。(国立国会図書館法10条及び11条)
東野氏もそうなんだが、もうけにはなるが、数年から数十年で絶版になり、誰もそんな本の存在を知らなくなることと、多少の機会損失はあるが、未来永劫様々な人に自分の書籍を読んでもらえること…どっちがいいんでしょ?
私は後者をお薦めします。